AIと音楽の王が手を携える日「AIが音楽を変える日」連載第8回

コラム AIが音楽を変える日

音楽産業の頂点、ルシアン・グレンジ卿は庶民の出だ。高校すら中退している。その高校は1573年にエリザベス1世が建てた名門だった。17歳になったとき、高卒と大学入試の資格を得るAクラス試験を受けたが入室の際、教官に「赤い靴に履き替えなさい」と命じられた瞬間、古臭い伝統に馬鹿馬鹿しくなって帰ってしまった。

そしてそのまま、サンドイッチマンのアルバイトをしていたロンドンのスカウト事務所に入社した。母は激怒したが父は怒らなかった。自分も14歳で学校を辞め、ロンドンでレコード屋を始めて成功していたからだ。

少年は才能をみつけるその仕事が大好きだった。パンク、ニューウェーブ、ヒップホップ  音楽業界に訪れる大波を彼の見立てたミュージシャンと共に乗りこなすうちに、自身にも巨大な才能があると自他ともに気づくことになった。ビジネスの才能である。

スウェーデンでダニエル・エクというスキン・ヘッドの若者が音楽業界の分厚い壁にヘディングを繰り返していたときに、彼の作ったスポティファイにチャンスを与えたのはロンドンでユニバーサルミュージックの欧州ビジネスを統括していたグレンジだ。彼はスポティファイに投資さえした。

そんな彼が爵位を受けたのは2016年のことだった。ユニバーサルミュージックのCEOに就任してから6年が経っていた。2021年には上場で14億ドル(225億円)のボーナスを得るが、この星の音楽ソフト売上の3割を統べるナンバーワンの音楽会社の長とはいえ、その金額は妥当かどうか。「アーティストから搾取している」と世間は騒いだ。

だが、全く無名だったスポティファイを見出し、育て、ネットの普及でCDとともに壊滅しかけたこの星の音楽産業をサブスクで復活させる道筋を作った功績を考えれば、もはやルシアン卿の巨額ボーナスに文句をいう人も少数派だろう。彼は音楽だけでなくテクノロジーのポテンシャルを見分ける才にも長けていた。

音楽産業にこの才能を持つ経営者が出ると世界を変えてしまう。

ソニー・ミュージックの創業者で、プロの歌手からソニー本社のCEOにまで登りつめた大賀典雄は、CDの創出で音楽産業に空前の黄金時代をもたらしただけでなく、すべてがデジタル化された今の時代の瑞祥となった(『音楽が未来を連れてくる』栄光の章)。

腕利きのサウンド・エンジニアからユニバーサルミュージックの旗艦レーベル、インタースコープの創業者となったジミー・アイオヴィンはスティーブ・ジョブズの才能を見抜き、共に音楽業界を巡ってiTunesミュージックストアを始動させた。それはすべてが配信される時代の先駆けでもあった(『同著』再生の章)。

最近、ルシアン卿はニューヨーカー誌の取材を受けたが、彼にとって音楽のメガトレンドと技術のそれは変わりないという。駆け出しの時代、サブカルに過ぎなかったパンクがロンドンのファッションやアート、メディアのみならず政治まで変えていったのを彼は目の当たりにした。シンセサイザーやドラムマシンといった新技術を取り入れたニューロマンティックが瞬く間にそのパンクを駆逐していくのも現場で体感した。

「生成AIがミュージシャンを駆逐する」という議論が巻き起こったとき最初に思い出したのが「ドラムマシンとシンセサイザーがミュージシャンを駆逐する」と騒がれた80年代初頭の空気だったという。

「次のシーンは何になるか。私は本能で嗅ぎ分けてきた」卿はニューヨーカーの記者に語った。「パンクであれニューロマンティックであれ、私は楽しんで果実を摘み取ってきた。テクノロジーでも同じだよ」

その嗅覚が「スポティファイの次に来る大物は生成AI」だと彼に語りかけているという。だから去年、“フェイク・ドレイク”事件で音楽業界がAIにネガティヴな騒ぎを起こす前からユーチューブと交渉を重ね「ミュージシャンが生成AIで稼ぐ道」を実験してきた。

「間違った方向に行く危険にだけ焦点を当てて戦略を立てたら、経営者は恐怖で麻痺してしまう。だが、私は恐れないよ」

ユーチューブは事実上、最も音楽が消費される場所だ。それはスポティファイなど音楽サブスクを超えている。だからまず守りと攻めの取り組みを彼らとやった。

生成AIの生みだす音楽に対しユーチューブが責任を持って対処する三原則を取り決めた「アーティストAIインキューベーター」が守りの一手。これに基づきAIが生成した音楽に「シンスID」を付けるシステムが稼働した。

そして攻めの一手が以前、紹介した「ドリーム・トラック」だ。9人の人気アーティストと正式に契約を交わし、音楽を合法的に学習させたそのAIは、それぞれのアーティストの声と作風に似た30秒のトラックを生成できて、ユーチューバーはショート動画でその音楽を利用できる。

つまり彼は、生成AIを法律でどうにかしようとする間に、先手を打ってだいたいの方向を定めてみせたのだ。その上で、若年層の間でユーチューブと並ぶ影響力を持ち始めているTikTokに対し毅然とした交渉を重ねた。

2024年1月30日、同社との交渉は決裂した。ユニバーサルミュージックの音楽はTikTokで再生できなくなった。ユニバの音楽はビルボードのTikTokチャートの35%を占めている。TikTokを運営するバイトダンス社は「横暴だ」と責めたが、ネットやアーティストから同調する動きは少なかった。

当然といえば当然だった。TikTokが音楽に支払う利用料はユーチューブの500分の1と極少なのは業界では周知の事実だった。今のTikTokは10分の動画を投稿できるので、上限60秒だった頃のように「無料試聴と変わらない」とも反論できない。

スポティファイやユーチューブは未許可の生成AI楽曲や違法曲をユニバーサルの要請で削除してきたが、TikTokは充分に応じたとは言えない調査も出ている。楽曲の音程を微妙に変えて違法に音楽を利用した動画の割合はTikTokが31%で群を抜いていた。

TikTokは音楽サブスクを一部の国で実験的に始めているが、少なくともユーチューブ並みにきっちりと対応しなければ先進国で展開するのは不可能だろう。

「私はジャズ・ミュージシャンのように考える」とグレンジは言う。「辿るべき道や手段ははっきりわからなくても、ゴールは明確に見えている」

ファスト・カンパニー誌は2023年度、最もイノヴェーティヴだった音楽会社の首位にユニバーサルミュージックを選出した。音楽産業の当代の王は、すでにAIと握手を交わしたのだ。

※「AIが音楽を変える日」は現在「新潮」(4月6日に最新号発売)にて連載中。Musicmanでは1月遅れで同連載を掲載していきます。

著者プロフィール

榎本幹朗(えのもと・みきろう)

1974年東京生。Musicman編集長・作家・音楽産業を専門とするコンサルタント。上智大学に在学中から仕事を始め、草創期のライヴ・ストリーミング番組のディレクターとなる。ぴあに転職後、音楽配信の専門家として独立。2017年まで京都精華大学講師。寄稿先はWIRED、文藝春秋、週刊ダイヤモンド、プレジデントなど。朝日新聞、ブルームバーグに取材協力。NHK、テレビ朝日、日本テレビにゲスト出演。著書に「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DU BOOKS)。現在『新潮』にて「AIが音楽を変える日」を連載中。

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