ジョージ・マーティンが残した功績、ジェフ・ベック「ブロウ・バイ・ブロウ」

コラム 高橋裕二の洋楽天国

ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンが亡くなった。メディアやサイトやブログやツイッターに彼の功績が溢れている。当ブログの筆者もジョージ・マーティンがプロデュースしたアーティストの日本盤を担当した。アーティストはジェフ・ベックで、アルバムは「ブロウ・バイ・ブロウ(ギター殺人者の凱旋)」である。アルバム制作のいきさつが、マーティン・パワー著・細川真平・日本語版監修・前むつみ訳「ジェフ・ベック-孤高のギタリスト」で書かれていて、興味深い。

ベック・ボガート&アピスは成功したが、ジェフ・ベックはソロ色の強いアルバムを作ろうとしていた。参考になったのがジョン・マクラフリンとマハヴィシュヌ・オーケストラによる「黙示録」だった。ジョン・マクラフリンはジャズやロックやフュージョンを融合したギターの異才。そしてプロデューサーはジョージ・マーティン。

キーボードのマックス・ミドルトンが回想する。「なんていうのかな、ジョージ・マーティンって、気立てのいい親戚のおじさんみたいな感じなんだ。『午前10時から夜6時まで作業することにしよう。それより長引くと疲れるからね。それに、夜の6時なんかに始めたら、深夜2時、3時までここにいるはめになるだろう。そこはきちんとけじめをつけてやってこうな』って言ってくれて」

しかしジェフ・ベックは朝来ない。ジョージ・マーティンが理由を聞くと、ジェフ・ベックは夜の方が車の駐車料金が安いと答えた。ジェフ・ベックも回想する。「すごく難しい部分にさしかかって四苦八苦してる俺に、ジョージが言うんだよ。『ジェフ、今朝はまるで天使のように素晴らしい演奏だったのに今は最低だ。とっとと休憩しろ!』って。彼のそういうところ、大好きだったよ。俺は自分のプレイを特別扱いされるのが大嫌いだからね」

こうしてアルバムは完成した。アルバム・タイトルの「ブロウ・バイ・ブロウ」についてジェフ・ベックは、「ジョージ(マーティン)が思いついたんだ。最初は嫌だったんだけど、聴けば聴くほど、ピッタリはまってたんだよね」と回想している。アルバムは1975年3月にアメリカで発売され、ビルボード・アルバム・チャートの最高位4位に。ジェフ・ベックにとってアメリカで最も売れたアルバムになった。

記事提供元:洋楽天国


高橋裕二氏インタビュー

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