海外レコーディングとスタジオの現状とは 〜米N.Y. 「BEAT ON BEAT, INC.」プロデューサー/ディレクター ATSUSHI “SUSHI” KOSUGI氏インタビュー

インタビュー スペシャルインタビュー

ATSUSHI “SUSHI” KOSUGI氏
ATSUSHI “SUSHI” KOSUGI氏

2000年までアメリカ・ニューヨークのレコーディング・スタジオ「BEAT ON BEAT STUDIO」の経営、また、現在もプロデューサー/ディレクターとして多くの内外アーティスト作品を手がけているKOSUGI氏がアルバム・レコーディングのため日本に一時帰国。

今回、Musicman-NETでは、世界のレコーディング・スタジオでご活躍されているKOSUGI氏に、アメリカの音楽業界やスタジオ事情、海外から見た日本の音楽業界などについてお話を伺った。


——SUSHIさんがアメリカでお仕事をされるようになった経緯は?

KOSUGI:僕は小さいときから音楽キチガイでしたが、日本の音楽業界で働いたことはありませんでした。この仕事を始めたのが30才の時で、当初はバークリー(バークリー音楽大学)に入学するために渡米しました。バークリーには、25〜28才までいて、そのあとニューヨークに出たんですね。その時は学生ビザの1年間のエクステンションで、1年経ったら帰国して作曲家かアレンジャーになろうと思っていました。ニューヨークに出たばかりは右も左も判らなかったので最初はとりあえずジャパニーズレストランでウェイターをやっていたんですが、その頃にMac+が発売されて、それを買って勉強し始めたのがコンピューターとの出会いでした。そんなことをやりつつ1年くらい経った頃に「グリーンカードの宝くじ」という制度がアメリカでできまして、それでグリーンカードが当たってしまったんですよ。

——そんな宝くじがあるんですか!?

KOSUGI:今でもやっているんですよ。でも、それの第1回目だったので「移民局の違法滞在者を捕まえる陰謀なんじゃないか?」とか言われていたんですが(笑)、僕は法を犯してまでアメリカにいるつもりは全くなかったので、ダメもとで27通応募したんですよ。

——何通出してもいいんですか?

KOSUGI:ええ。それで見事に当たったんですよ。突然グリーンカードが手に入ってしまって「じゃあ、どうしよう?」ということになったんですよね。その当時、アメリカに日系の音楽事務所なんてほとんどありませんでしたし、業界経験もなく英語も下手くそな日本人を雇ってくれるアメリカの会社なんて見つかりませんでした。それで「自分で会社を作るしかないだろう」と思ったんですが、アメリカで会社を作る方法がわからない。そもそも会社を作るということ自体よくわからない様な状態でしたからね。

 それで一番近い業界に入って、勉強してみようと思って、日系のテレビ番組制作会社に入ったんですよ。仕事は番組のコーディネーターといいますか、そんなものです。それで、日本からディレクターやカメラマン、制作会社の方々が来るわけですが、その人たちと一緒にアメリカ中をうろうろ一年間くらいしていたんですよ。でも、一年経ったときに「やっぱりテレビって好きになれないな」と思ったんですね(笑)。

 その時に18才の頃から付き合いのあるお金持ちの友人がいまして、その彼もジャズピアノを弾いていたので、「自分も音楽に何か貢献したい」と思っていて、「俺が資金を出すからお前何かやってみろよ」という話になって作ったのが今の会社なんです。

——具体的にはどのような内容の仕事ですか?

KOSUGI:最初の頃は何でもやりました。ラジオ番組の制作なんかもしましたね。それでバークリーで同級生だった人達が日本に帰っていって音楽業界のプロとなり、自分のプログラムでニューヨークに来てくれる様になったんですね。それまではバークリーを出て日本のレコード会社に入った人は一人もいなかった様です。

 もともとバークリーは歴史的に見るとミュージシャンとアレンジャーの学校です。僕が入学した頃には学内に7つのビッグバンドがあって、昔のバークリーと言いますか、そんないい時代のバークリーの最後の頃だったと思います。僕はバークリーに3年いたんですが、卒業する頃には花形はシンセメジャーとMPE (Music Production & Engineering)というレコーディングメジャーに変わっていました。ですからレコーディングルームも3つくらいあって、そこで「ゲートリバーブの作り方」とか(笑)、エンジニア志望の子はみんなやっていたんですよ。

——それはなにか80年代っぽいですね(笑)。

KOSUGI:僕がバークリーにいたのは’83〜’86年ですから。そんな時代です。「ゲートリバーブ」ができれば一流のエンジニアになれると多くのエンジニア志望の学生は思っていました(笑)。話を戻しますと日本に帰国した同級生の中でディレクターになった人が4人いたんです。またプロのアレンジャーになった人も多く出ました。彼らのうちの何人かが初めの頃には仕事を持ってきてくれたりしたので、最初はほとんど現場コーディネーションをしていました。

——ミュージシャンのコーディネートをするときは、例えば、ミュージシャンユニオンなどを通したりするんですか?

KOSUGI:ミュージシャンユニオンを通すのは、私の場合、オーケストラかストリングス・セッションの時だけです。後は全部横の繋がりです。当時は「アーティスト・ディレクトリ」というサービスがありまして、多くのミュージシャンがそこに登録をしていました。そこに電話してメッセージを残すと返事が来ると。そういうようなことが多かったですね。直接知らない人はミュージシャン繋がりで探す感じですね。

——では、あまり日本と変わらないんですね。

KOSUGI:そうですね。それで’92年に先ほどの友人が「場所(物件)を買おうかな?」と言い出したんですよ。僕も「スタジオをやってみたい」と思いまして、当時タワーレコードの本店があるビルがあったんですけど、イーストビレッジ4丁目のビル、マンハッタンの中でも珍しいコマーシャル(商業施設)とレジデンシャル(住居)が一緒になっているビルでして、私のフロアは6Fだったんですが、7Fから上がレジデンシャルということで、後で騒音問題が起こってしまって大変だったんですが(笑)、そこにスタジオを作りました。

——それが「BEAT ON BEAT STUDIO」ですね。

KOSUGI:そうです。’92年から建設が始まって、’93年にオープンしました。そこでたくさんの作品を作りましたね。僕がこの仕事を始めたのが’88年ですが、そこから’94、5年までというのはリズムがマシーンで、その上にギター、ベース、ピアノ、コーラス、ホーン・セクション等のダビングをするのが主流だったんですね。また、ベーシックのリズムを他の大きなスタジオで生で録ったとしても、そこから重ねるのにものすごく時間がかかった時期でした。

米N.Y. 「BEAT ON BEAT, INC.」プロデューサー/ディレクター ATSUSHI SUSHI KOSUGI氏

——スタジオの経営が順調に出来た時代ですよね。

KOSUGI:そうですね。キックの次はスネア、ハイアット…とそういった時代でした(笑)。だから凄く長い時間かかったわけですよ。

 最初は小さいスタジオで作っていくのが主流でしたから。スチューダーのA800 24トラックがどうしても欲しかったので、日本から買いました。それで録っていくと一杯になるじゃないですか。そうしたら当時出たばかりのA-DATとマイクロリンクスというシンクロナイザーをシンクさせて4chや8chでA-DATにサブミックスを作って、それをまたスレーブの24チャンに落として歌やコーラスを録ったりして、最後に外のSSLスタジオヘ行って48chのアナログでミックスするという仕組みを考えたんです。そんなカンジでずいぶん作りましたね。

——スタジオにとっての黄金時代だったかもしれませんね。

KOSUGI:ええ。当時はディレクターとして365日のうち250日くらいスタジオに入って実際の録音作業していましたからね。

——それはほとんど日本からの仕事で、ですか?

KOSUGI:全てそうです。

——では、スタジオを作ったのは大正解でしたね。

KOSUGI:初めの頃はそうでしたね。その状況が変わってきたのが96年くらいからだったと思います。どういう風に変わってきたかというと、生もののオーダーがものすごく多くなってきました。「今度はマシーンのリズムではなくて、生でリズムを録りたい」と。90年代の日本のポップスってフュージョンと似てたんですよ。非常に複雑なコード進行があって、メロディがあってという。ですからフュージョン系のミュージシャンとのセッションが多かったです。僕はSMAPのアルバムも10枚ほどやらせて頂いたのですが、彼らのアルバム・プロジェクトはユニゾンボーカルと一流のフュージョン・ミュージシャンとの激突!みたいな制作でした。

——つまりニューヨークまで行く仕事は、日本国内とは逆に生を指向していたと。

KOSUGI:そういうことだと思います。ミュージシャンを求めて来たんだと思いますね。スター・ミュージシャンがいて「ドラムはオマー(・ハキム)で録りたい」とか「ベースはウィル・リーでやってみたい」とか、そういうことだったんだろうと思いますね。とにかくミュージシャンとのセッション仕事がさらに多くなりました。

——でも、超一流ミュージシャンたちの演奏を間近で観るわけですから、そういったお仕事は面白かったんじゃないですか?

KOSUGI:日本から来る人たちに「お前はどれだけ幸せなポジションにいるかわかってないだろう?」ってよく言われました(笑)。でも、その当時はこっちは海外でやってるんだからそれが当たり前だと思っていましたし、次から次から来る仕事をこなしていくので精一杯でしたから、よくわかってなかったんですよ。今にして思うと「何て素晴らしい時代だったんだろう」と思うんですけどね(笑)。

 それで’96年くらいからうちのスタジオの稼働率が下がってきてしまったんです。外のスタジオばかり使うようになってしまった。また、騒音問題で頭を悩ましたり、日本からのオーダーも減ってきました。それで、僕も日本のポップスにほとほと疲れていたので「スタジオを売っぱらって止めるか?」ということになりました。そのときに当時J出版の鎌田俊哉さんがビクターで「aosis」という大人向きのレーベルを立ち上げるので、スタッフプロデューサーになってくれないか? というお誘いを受けまして、それで「なにしたらいいの?」と訊いたら「何やってもいいよ」と(笑)。本当に音楽でやりたかった長年の思いを叶えさせて頂きました。

——(笑)。

KOSUGI:話が前に戻ってしまうんですが、日本の海外レコーディングの歴史がありますよね。そうすると現場というのはいくつかの都市があるんですが、その中で一番多かったのがニューヨーク、LA、それにロンドンです。また、LAとニューヨークでみますとバンドはニューヨークに来ないんですね。僕がこの仕事していてニューヨークにバンドが来たのは1、2回しかないと思います。それもミックスか何かで、ほぼ99%ソロ・アーティストです。バンドはLA。なぜかそういうことになるんですよね。

 ソロアーティストをレコーディングするということは、とにかくバンドを編成しなくてはいけないということなんです。オケを作って現場で指示を出していかなくてはいけない。その作業に対して僕は強かったのだと思います。ロック系、フュージョン系、ジャズ系、ブラジル系のミュージシャン、と色々いるわけですが、ニューヨークだけではなく出かけていきます。ちなみに僕が今までにレコーディングを行ってきた主立ったアメリカの都市は4つあって、ニューヨーク、LA、ナッシュビル、マイアミです。

 元々ブラジリアン・ミュージシャンのセッションがものすごく好きだったんですね。さらに中学生の頃からフラフラするのが好きと言いますか、放浪癖がありまして(笑)、アメリカ以外の国、南米やヨーロッパでもレコーディングをしたくて、たまらなくなっていたんですよ。10年やってアメリカのレコーディングに飽きてしまっていたんですね。

 それで鎌田さんから「aosis」のスタッフプロデューサーになってくれないか? という話を頂いたときに、「何やってもいい」と言われたので「ブラジルとか行ってレコーディングしていいの?」と訊いたら「いいよ」ということで、アメリカに家はあったんですが、そこからしばらくレコーディング放浪の旅に出てしまったんです(笑)。

——レコーディング寅さんですね(笑)。

KOSUGI:特にブラジルには何度も行きました。17回くらい行ったかな? 一番長いときで2ヶ月くらい滞在して、ボサノヴァのアルバムなどをかなり作りました。その次に多かったのがオランダです。

 2000年にスタジオをクローズして、それと前後して「aosis」が始まったんですが、スタジオをクローズするときにプロトゥールスのミックス+・32chシステムというのをこさえまして、移動式のラックにして、裏をSSL-DLコネクターで出入力をまとめて、それを持っていきながらレコーディングを始めたんです。

——その頃はプロトゥールスが出始めの頃ですか?

KOSUGI:当時スタジオにまだプロトゥールスはありませんでした。僕がニューヨークでオーケストラをプロトゥールスで録音した第一号だと思います(笑)。自分で組んだシステムを持ち歩いて、ディレクションしながらパンチインして、といったスタイルを長い間やりました。でも、先ほど「エンジニアもやるのか?」と訊かれましたが、僕はやりません。必ず相棒のエンジニアを呼びます。

——ミキシングはやりたくないんでしょうか?

KOSUGI:やりたくないですね。聴いているところが全然違うので、できないと思いますしね。歌のレコーディングとエディットくらいは少しやりますけどね。

米N.Y. 「BEAT ON BEAT, INC.」プロデューサー/ディレクター ATSUSHI SUSHI KOSUGI氏

——SUSHIさんは時代と状況に合わせてどんどん制作環境をご自身で作られていますよね。

KOSUGI:生き残るためにやっていた感じですねけどね(笑)。ただ、コンピューターとか機械いじり、システム作りが好きだったというのはあると思います。ブラジルで作業したときもプロトゥールス自体はあったんですが、誰も使い方がわからなくて、足りない部分だけ持っていってシステム組んで作業していたら新聞社の取材が来てしまったりしたこともありましたね(笑)。キューバで録音するときも、最初「プロトゥールスがない」と聞いていたので、大変な思いをして2インチテープを手で持っていったら、ちゃんとあるんですよ(笑)。でも、やはり使い方がわからないということで教えてあげたりしましたけどね。

 そんなこんなでブラジルやロンドン、オランダ、パリとあちこちで録音していたんですが、2005年くらいから音楽業界の不況で日本人アーティストはだんだん海外に出られなくなってしまったんですよね。そんな時「弦だけのせて送ってよ」とか、「リズム録って送ってよ」みたいな話が来だして、ベーシックをサーバーに上げて貰って、それを僕が落として録ってきて、またサーバーに上げて「できました」と。それ以来、ニューヨークはもとより、LAやオランダに僕が飛んで録ってネットに上げてって仕事が多くなったんです。で、今となっては「オケ全部をこちらで録って送る」ってことも起こるようになりましたね。

——うーん、イマドキの仕事ですね…。

KOSUGI:そうですね。A&Rすら来ないですからね。もちろん、ご信頼頂けてるのはありがたいですし、プロデューサー/レコーディング・ディレクターとしてやっていますので、十分それでいけるんですが、寂しい部分もありますね。

 自分がやっているセッションというのは、日本の若いエンジニアやアレンジャーにとってみたら夢の部分が大きいと思うんですよね。ですから昔は自費でいらっしゃった方も結構いたんです。「セッションを見せて下さい」と。だけど、今はそれすらも許されない雰囲気と言いますかね。

 海外レコーディングはお遊びでもご褒美でもないんです。もっとチャレンジングなものだと思うんですね。昔はやる気がみなぎった名物ディレクターの方々がたくさんいらっしゃって、「海外ですごい物つくるぞー!」ってどんどん出て行ったわけです。僕なんかそういった人達に鍛えられたのですが、今はそういった声を上げづらい雰囲気だと思います。なんだか閉塞感を感じてしまいますね。

——そういう兆候が2005年にはすでにあったということですよね。日本のレコーディングスタジオは2008年のリーマンショック以降、ガタッと調子が悪くなった印象があるんですが、アメリカはどうなんでしょうか?

KOSUGI:アメリカでも影響はあったでしょうけど、僕個人は2008年以降も結構お呼びがあったんですよね。予算は非常に厳しくなってますが、そこをなんとかやりくりしつつ、今は継続しているという感じでしょうか。

——2、3年前からニューヨークのスタジオが閉まりだしたと聞いていますが、現状はどうなんですか?

KOSUGI:だいぶ減りましたね。2010年の秋に「クリントン」というところが閉まりまして、ここは昔ながらのオーケストラルームがあったところで、僕も本当によく使っていましたから非常に痛手です。今は大きな箱というのがニューヨークで、3、4箱しかありません。ただ、それはマンハッタンの中での話で、一歩郊外に出ればあるんですけどね。今回のビッグバンドレコーディングは半年くらい前からブッキングしていたんですが、使う予定だったタイムズスクエアにある「MSR」というスタジオが使えなくなってしまったんです。MSRは3階建てくらいのビルで、角にDELIがあって、小さな楽器店やTシャツ屋が並んでいるんですが、そのうちの一軒のTシャツ屋から火が出て、放水されて、ライブルームに水と煙が入ってしまったんです。で、そこのオーナーとエンジニアと僕とで手分けして色々とスタジオをあたって、ニュージャージーの「ウォーター・サウンド・レコーダーズ」というスタジオに入っていたお客さんを後ろにずらして頂いて、やっと我々ができたといういきさつがありました。9、10月って一番忙しい時期なので、「あっ、このセッション終わったかな…」と思いました(笑)。

——残っているスタジオには仕事があるんですか?

KOSUGI:レコーディングが全くなくなるということはないわけですから。だからある意味我慢大会です。あるスタジオが潰れたら、そこでやっていた仕事が他のスタジオに移るわけですから。完璧に需要と供給のバランスです。ただ、昔に較べてスタジオで作業する時間自体は短くなりましたね。エディットは家でできますしね。

——スタジオにいる時間が短いのは日本も同じです。

KOSUGI:僕だってそうですからね。変な話、今となっては僕の立ち位置は生ものを録れるってことなんですよね。今どきの音楽を作る若い日本人はニューヨークにもたくさんいますが、バンドを録りたい、ビッグバンドやりたい、オーケストラやりたいといったときに、ディレクションも含めその全てを仕切ることはできないわけです。僕はそこで生き残っているようなものなので、芝居小屋の親父みたいなものです(笑)。スタジオに入る前までの作業というのは、僕にとっては前となんら変わらないんですよね。まず、デモを作って、アレンジャーを選定して、スコアを書かせて、ミュージシャンに声かけて、指示出して…。

——マスターのメディアが変わっただけですね。

KOSUGI:本当にそうです。人間的な部分は全く変わっていないんですよ。

——そう考えますと小杉さんの立ち位置はいいですね(笑)。

KOSUGI:今回帰ってきて、豊島さん(株式会社豊島総合研究所 代表取締役社長 豊島政実氏)とお会いする機会があり、海外のスタジオの話ですごく盛り上がりました。豊島さんはご存じの様に世界中にスタジオを作られているんですが、そのスタジオが少しずつ消えていくわけです。それは豊島さんにしてみればものすごく悲しいことだと思うんです。でも、豊島さんは今でも海外にどんどんスタジオ作られていっているんです。素晴らしいエネルギーをお持ちで感動しました。

——今でもですか?

KOSUGI:今でもです。豊島さんに今依頼がある場所は、東南アジアや韓国、あとは東ヨーロッパの話もあるとおっしゃっていました。タイとバリ島ではリゾートスタジオを作りたいというお話だそうです。やはりレコーディングスタジオというのは、憧れる人が多い夢の場所なんでしょうね。

——そう思っていたんですけどね…。

KOSUGI:いや、絶対にそうなんですよ。日本やアメリカやヨーロッパは一度落ち着いてしまったところなんだと思うんですね。ところが経済成長が著しい国にはレコーディングスタジオを作りたいという人がけっこういるらしいです。僕はその話を聞いて、「日本人のアーティストだけ相手にしている場合じゃないな」と本当に勇気づけられました。

——確かに世界を相手にできる方はそう思われるかもしれないですね。

KOSUGI:東南アジアのアーティストで「ニューヨークでレコーディングしたい」と思っているアーティストはいるんじゃないかと思うんですね。だから僕なんかは、そういう人たちとも一緒にやっていくべきなんだと教えられました。

米N.Y. 「BEAT ON BEAT, INC.」プロデューサー/ディレクター ATSUSHI SUSHI KOSUGI氏

——アメリカから帰ってきて、日本の音楽業界に何か大きな違和感は感じましたか?

KOSUGI:なんとも言えないですけど、昨日馴染みのA&Rと話していて面白いことを言っていましたね。「リスナーが三層に分かれている」と。一番上は40代前後以上の世代の方達。この世代はダウンロードはしないでCDを買うんだと。次は中間層で、30代前後以下だと思うんですけど、CDも売れるし、ダウンロードもある。そしてこの下の世代になると、CDもダウンロードでも買わない。ただ、それはアーティストや音楽の種類にもよるそうです。

——音楽にお金を出す習慣がない世代ですね。

KOSUGI:今の音楽業界はとにかく“トライ”しない印象がありますよね。それから30代以上のヤングアダルト層はまだ音楽を必要としている世代だと思うんですけど、そういう世代の人たちに寄り添うようなものがないんですよね。それはすごく感じますね。

——それは昔で言うとどんな音楽のことですか?

KOSUGI:アメリカにいる時間が長いので、ズレまくってて笑われちゃうかもしれないんですけど(笑)、「ジョニィへの伝言」とか、「五番街のマリーへ」とか、ああいう曲がなぜ出ないのかなと思いますね。みんなで歌えるようないい歌謡曲のような。

——歌謡曲というジャンルが絶滅してしまったのかもしれませんね。

KOSUGI:実は今年の8月にも帰ってきたんですが、その時帰国した際に見た日本のテレビ番組はすごくくだらないなと思ったんですよ。お笑いとグルメ番組しかない。でも、今回(10月)帰ってきてテレビを見たらいい番組が増えていてびっくりしました。お金のかかってる番組も増えましたし、内容もいいものが増えている。海外ロケも増えました。みんな「くだらないからテレビなんて見るのやめよう」と思うようになって、広告収入は激減するし、ネット上でもぼろくそに言われていたじゃないですか。あれはきっと、業界の上層部の人たちが集まって、「テレビにしかできないことをもっとやらないとまずいぞ、そういう番組をつくらないと!」って話が出たんだと思うんですよ。だから今回良くなっているのをすごく感じます。音楽業界もそういう時期にきていると思うのは僕だけでしょうか?

——インターネットが台頭してきてふんどしを締め直したというところはあるんですかね。

KOSUGI:だと思います。その辺は今回日本に来て感じています。ドラマなんかは、特に日本が高度経済成長で盛り上がってきた時代の話が多いですね。それこそ「南極大陸」なんかは、そこに井深大さんとか、本田宗一郎さんとかが出てくるわけですよ。松下幸之助さんのドラマもあったじゃないですか。NHKの朝の連ドラもそうですし、音楽も新しいアーティストで一回昭和に戻ったようなものもきっちりやればいいのにと思いますね。

——そういう動きは多少あるようです。トニー・ベネットの新しいアルバムも話題になっていますが、ビッグバンドのかっこよさとか、ああいう古き良き時代のゴージャス感とかはたまらないですよね。

KOSUGI:考えてみれば、いつもバーブラ・ストライサンドは売れていたし、ロッド・スチュワートの「ザ・グレイト・アメリカン・ソング・ブック」というスタンダードを歌ったアルバムのシリーズは世界中で1000万枚以上売れました。本当にレコード会社がやらなくちゃいけないのは、レコード会社にしかできないプロダクションだと思うんですよね。

——徳永英明の「VOCALIST」シリーズなんかはレコード会社らしい作品ですよね。ああいうものがある年齢より上の層にこれだけ評価されているんだからもっと出てきてもいいと思うんですよね。

KOSUGI:本当にそう思います。そのへんの子供が部屋で作れるようなオケを、メジャーレーベルが作る必要はないと思います。

——まったく同感です。より高度なものというか、普遍性のあるものを作って欲しいですよね。

KOSUGI:すごく強くそれを思いますね。

——アメリカではCDショップがほとんどなくなり、ウォールマートで売れセンのCDだけが置いてあって、それ以外はAmazonなどでしか買えないというような話が聞こえてきますが、実際はどうなんですか?

KOSUGI:その通りです。売れているCDはとにかく置いてあるんですよね。若い人向けもそれこそトニー・ベネットでもあるんですよ。ウォールマートやベスト・バイ(大型家電量販店)に置いてないCDはAmazonにオーダーすることになりますが、すぐに届きますからね。

——アメリカではほとんどダウンロードで買うようになってきていますか?

KOSUGI:うちの子供もそうですね。ただ、ある時子供にCDを買ってあげたんですよ。そうしたら「やっぱりCDって音が良いね」って言うんです。でも基本的に1〜2曲だったらダウンロードで買うじゃないですか。昔、コンピレーションアルバムが売れた時期がありましたよね。今は全然売れないそうです。なぜかと言うと、自分の好きな曲だけ選んで勝手にコンピレーション作ればいいという話なんですよ。

——アルバムで買うという習慣がなくなってきているのかもしれないですね。

KOSUGI:そうなのかもしれないですね。ただ、先ほどの話に戻りますけど、全世代がそうではありません。アメリカでも40代以上の世代はCDを買っている人も多いです。

——日本ではスピーカーで音楽を聴く人がどんどん減っていますが、アメリカでも同じ傾向はあるんでしょうか?

KOSUGI:そうですね。子供はずっとヘッドフォンはめていますね。聴いてないときはYouTubeかFacebookかでしょう。

 ただしバイナル・レコードの売り上げは驚異的に伸びているという話を聞きます。この間マスターディスクのオーナー・エンジニアと話したら800%の伸びだそうですから。これはDJ用もありますが、一般リスナー向けとしてのオーダーが増えているとのことです。ですからいい音、ガツンと来る音で音楽を聴きたいと望む人達は確実にいるって事です。裏返して言えば、今の音楽業界はそういった人達のニーズに応えきれていないって事だと思います。

——世代間の差というのはアメリカも日本もあまり変わらないようですね。スタジオではあんなにいい音が出てるのに、みんながヘッドフォンで聴くようになったら悲しいですよね。エンジニアもヘッドフォンで聴く人が増えたのでミキシングに苦労してますよね。

KOSUGI:でも、ヘッドフォン用にミックスする必要はないと思うんですけどね。

米N.Y. 「BEAT ON BEAT, INC.」プロデューサー/ディレクター ATSUSHI SUSHI KOSUGI氏

——総体的に日本の音楽は、一部を除いて制作者側もアーティスト側も海外にチャレンジしないし、海外にマーケットなんか存在しないと思っているからどんどんドメスティックに、鎖国状態になっていきていると感じるのですが。

KOSUGI:音楽に関わらず、携帯にしてもなんでもそうですよね。

——例えばiCloudも日本だけ音楽はクラウドに上げられないんですよ。違法配信が最大の敵と言いながら一方で堂々とレンタルCDはやってるというこの一貫性のなさは到底理解できないわけですよ。アルバム1枚レンタルすれば何人でもダウンロードできるので、iTunesで1曲150円では買わないですよね。

KOSUGI:矛盾してますよね。だからきっと裏で何かやり取りがあるんでしょうね。逆にお聞きしたんですけど、ハイビットの音楽配信サイトがあるじゃないですか。あれは日本では話題になっているんですか?

——愛好家は増えてきているそうですが、ごく一部のマニアの中での話だと思います。

KOSUGI:コンピューターにダウンロードしたハイビットのオーディオファイルをどうやって再生するかという話で、アメリカではオーディオ用のD/Aコンバーター(DAC)が安いのから高いのまでたくさん出てきています。

——日本でも、やはり一部のオーディオマニアの中でですが、PCオーディオはすごくいい音がするということで盛り上がってきているという話は聞きます。

KOSUGI:例えば高音質コンポにUSBや光インプット端子が付いていれば24bitオーディオの音が楽しめるわけですよ。圧倒的にいい音だと思うんです。

 実はこれを2〜3年前から色んなところで言っているんですけど、PCオーディオ用のコンバーターが出てきたのがここ1年くらいなんですよ。この1年で1万円くらいから20万円の物まで出たんです。もう少し進化してくれれば音楽にとってプラスの方向につながるんじゃないかと期待しているんです。もっとハイビットのPCオーディオをちゃんと推進していくところができていけばと思うんですけどね。そうするとダウンロードミュージックもあながち捨てた物ではないと思いますし。

——それが伸びてきている現実がアメリカにはあるんですね。

KOSUGI:あります。爆発的にとは言い難いんですが。確実に伸びています。

——アメリカのメジャーの制作予算も減っているんですか?

KOSUGI:アーティストによると思います。先日もディアンジェロがMSRスタジオを2ヶ月間押さえてましたし、メタリカは相変わらず何ヶ月もかけてレコーディングしてますし、ドリームシアターは足かけ6ヶ月もやってましたよ。

——やはり売れるアーティストには予算があるんですね。日本の音楽業界は、長い期間耐え続けてきたので、そろそろ反撃に転じてほしいんですけど、CD売上のダウンを補う方法が今のところまだ誰もみつけられない、というところですよね。

KOSUGI:まずはミュージシャンの仕事が増えて彼らがかっこよくならないと、音楽業界の再生はないと思いますね。

——アメリカでは、1日2セッションやるようなスタジオが今もあるんですか?

KOSUGI:あることはありますが、もちろん黄金時代の様にはいきません。昔、ニューヨークにパワー・ステーション・スタジオができた頃、時間が3ゾーンあったらしいんですよね。まず、朝の8時から12時までがジングル・セッションといってCM系音楽の録音。そして、13時から20時くらいまでを通常のデイタイム・セッション。で、22時くらいから朝までやるのがナイトタイム・セッションというんですね。ナイトタイム・セッションは多少安くしていたらしいんですが、デイタイム・セッションは1時間280ドル。しかし、ジングル・セッションは1時間350ドルだったんですよ。つまり、22時間チャージしたとしたら一部屋1日に約5000〜6000ドルになるんですよね。それは大儲けしますよね。

——当時のレートは1ドルいくらくらいだったんですか?

KOSUGI:1ドル180円とかの時代ですよ。

——それをやれていたというのはすごい時代ですね。今はそんなことないんですよね。

KOSUGI:今はないですね。どこのスタジオも安くしていますし、そういった意味では苦しいと思います。ただ、パワー・ステーション、今はアバター・スタジオという名前ですけど、アバター・スタジオはビル自体を所有しています。先日ニュージャージのウォーター・ミュージック・レコーディング・スタジオというところに行ってきたんですが、そこもビルを持っているのでやっていけるんですよ。ウォーター・ミュージックのあるところは、今でこそスーパーマーケットができたりコンドミニアムがたくさん建ってたり綺麗になったんですけど、ちょっと前は廃墟の中のただの倉庫だったんですよね。それを少しずつオーナーが直していったわけです。ですから当時はビルも安かったんだと思いますよ。今のスタジオ経営にとって不動産物件を所有していることはとても大事な事だと思いますね。

——音楽産業にとって厳しい時代ですが、アメリカのミュージシャンの生活レベルは?

KOSUGI:貧しい人は貧しいです。ただ、これは日本と違う部分だと思いますけど、例えば、ニューヨークにはブロードウェイというシーンがあります。この多くが生バンドです。そしてロサンゼルスには映画産業があって、ラスベガスにはショーがあります。だからそれで生活しているミュージシャンはたくさんいるんですよね。ニューヨークのミュージシャンでブロードウェイに毎日入っている人は、ユニオンが強いからある程度安定しますからね。そういう人はそれなりの生活ができています。たまにレコーディングセッションを昼間にやって、夜はブロードウェイでやって、みたいなね。

——定職のあるミュージシャンですね。

KOSUGI:そうですね。あと、ジャズ系のミュージシャンに関して言えば、例えばモントレーとか、ニューポートとか、皆さんが知ってる有名なジャズフェスティバルがありますよね。でも実はそれはほんの一部なんです。ジャズ・フェスティバルって、世界中にものすごくたくさんあるんですよ。だから、それを点々とまわっていけば、けっこうな金額になるということと、ツアーですね。ツアーを組んでいけばかなりスケジュールが埋まるんです。そういうミュージシャン達は、昔はレコーディングがもっとあったのに、今はライブしか稼ぐ手立てがないので、移動がすごく多くなってしまったと言っていますが、日本では信じられないくらい稼ぐ人は稼ぎます。日本のミュージシャンはもっと海外に出て行かないといけないんだと思います。

——最後に小杉さんの今後のご予定は?

KOSUGI:こういう状況の中で各社A&R、もしくはプロダクションの方でやる気をなくしてしまった人もたくさんいると思いますが、未だにやる気を失わずに前向きに頑張っている方達も僕はたくさん知っています。ですから、今の円高時代をチャンスと捉えて、安いからという理由だけで行くんじゃなくて、何かトライしてみたい、異文化との交流の中で作ってみたい、そういう熱い想いを持った人と一緒にお仕事がしたいですね。そして海外レコーディングをやるということは、けっしてご褒美でもなければ遊びでもないので、もっと違うものとして捉えるべきだと思います。日本人はこれから否が応でも、もっと外に出て行かないといけない時代になります。そういった時代がくるときのためにも、もっと日本を海外にアピールしていくためにも、若い制作者は外に出て行って自分を慣らしておかないと、長く続けられる制作者にはなれないと思います。そして、レコード会社の上の人たちも、そういうところはきちんと理解しないといけない。今、若い制作者を育てるというのは、非常に重要で、必ず将来、業界全体の利益を生むものになっていくと確信します。ですからそういう人達と一緒に制作ができたらいいなと思いますし、僕はプロデューサー/ディレクターとして立っていきたいと思っています。

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