続・日本が世界の音楽産業にもたらしたもの「未来は音楽が連れてくる」連載第41回

コラム 未来は音楽が連れてくる

連載第41回 続・日本が世界の音楽産業にもたらしたもの
▲「CDの父」大賀典雄。ドイツ国立芸大で声楽と指揮を学ぶ。プロのバリトンとして活動していたが、盛田昭夫に請われSonyに入社し、現ソニー・ミュージックの創立に尽力。Sonyの社長に就任し、カラヤンと共にCDの黄金時代を築いた。
 

CDには大反対だったレコード産業と家電産業

 

「騙されるな!」1982年、アテネのリゾートホテル。ビルボード誌が主催する国際レコード産業会議でのことだ。Sonyの大賀典雄が発議したCDの導入に、メジャーレーベルの重鎮たちは轟々たる批難を浴びせかけた。

「我々から特許料をせしめたいんだろう」「レコード工場に投資した金をどぶに捨てろと言うのか」「レコードで十分やってけてるんだ。余計なことはするな」「音がいいのはわかった。だがそれがリスナーの需要に結びつくことはない」「ハード屋が勝手なことをするな。ソフト・ビジネスのことを何もわかっちゃいないんだ」

世界のレコード産業はCDに大反対だった。

当時の五大メジャーレーベルのうち、ポリグラム(現ユニヴァーサル)だけが、唯一の推進派にいた。出資会社のフィリップスがSonyとCDの共同開発を進めていたからだ。CBSレコード(現SME)のCEOは、CBSソニー・レコード(現SMEJ)でパートナー関係にあるにも関わらず「それ見たことか」という顔で、大賀に助けの船も出さなかった(※1)。

80年代初頭、世界のレコード産業は不況に喘いでいた(連載第39回)。

エジソンのレコード発明から百余年。Walkmanの席巻をきっかけに、Sonyとフィリップスの規格コンパクト・カセットが爆発的に普及し、アメリカではカセットアルバムの売上がLPの3倍を超えた(※2)。アナログ・レコードの寿命はいずれ尽きることは目に見えていた。

連載第41回 続・日本が世界の音楽産業にもたらしたもの
▲図1 世界のレコード産業売上。アルバムのユニットセールス。Walkmanの創ったカセットのピークはLPを超え、CDのピークはカセットのそれを超えていった。結果、世界のレコード産業に黄金時代が到来した(※3)。

百年を過ぎ経年劣化したレコードを刷新し、音楽産業、向こう百年の繁栄を切り拓く。CDプロジェクトには、音楽と共に次の世紀を歩むSonyの決意が込められていた。この百年革命を指揮する大賀典雄はこの年、Sonyの社長となる。『音楽家からビジネスへ転身した異色の経営者』とマスコミは書き立てた。

プロのバリトンだった大賀は朗々たる美声で怒号を発する、押し出しの強い人物で知られていた。しかし、さすがにレコード産業のほぼ全てから怒号を浴びせられたのはこたえたらしい。会議後のレストランで、呆然とエーゲ海を眺めていたという。

レコード産業だけでなかった。日本ではハード業界もこぞってSonyのCDを批難していた。

7年前から国内の家電業界は協議会を開き、デジタル・オーディオの規格をまとめようとしていた。だが話はいつまで経ってもまとまらない。少し、音楽配信の初期を彷彿させる。

当時、業務用の世界でデジタル技術が急速に進行していた。デジタルの流れは、コンシューマ層へ確実に広がるはずだった。それを裏付けるような動きもあった。その頃、Sonyは発明したばかりの3.5インチフロッピー・ドライブをスティーヴ・ジョブズに供給(連載第38回)。初代Macintoshの開発が進み、パーソナル・コンピュータの時代を到来させようとしていた(2013年12月20日訂正)。

業界のコンセンサスを待っていたら、家電はデジタルの世界で後れを取りかねない。そう判断した大賀は、フィリップスと組んで先を行く道を選択した。「抜け駆けだ」「今後、CDの普及には協力できない」と蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

大賀のフォークがかちゃりと動いた。

「駄目だと思う、そのこと自体が駄目なんだ。デジタルの音が素晴らしい、みなそれを認めた。事業にする方策を徹底的に考えていくんだ(※4)」

部下の鈴木にそう語り、魚料理を頑健に咀嚼し始めた。鈴木は隣で、大賀の目に不屈の意志が戻ってくるのを見ていた。

地球上の全てが敵に回ったわけではない。

一年前の1981年、ザルツブルグ音楽祭の合間に開かれた初のCDのデモンストレーションは好評だった。1976年にベータマックスで地球に録画文化を提案し、1979年にWalkmanでヘッドフォン文化を創ったSonyがまた何かをやってくれる…。

発表後、世界の消費者たちの、そんな期待感が伝わって来た。音楽業界をすべて敵に回しても、音楽ファンはきっと味方になってくれるはずだ。

音楽ファンだけでない。クラシック界の帝王、カラヤンがCDのプロモーターを買って出てくれたのは本当に心強かった。

自宅の編集スタジオをSony製品で満たすほどのソニー党だったカラヤンは、東京公演の際、盛田の邸宅に何度か招待されている。そこでカラヤンはCDの音を初めて聴いた。CDプロジェクトのリーダーとして内々の試聴会を仕切った大賀は、カラヤンと話し込み、気に入られた。

ドイツの音大に留学していた、というのもあるが、その頃カラヤンはジェット機の操縦が趣味で、大賀はその趣味ではカラヤンの先輩だった。プレステ・コントローラーの操縦桿を模したデザインは、ジェット機乗りだった大賀の指示だ。

ふたりはやがて友人になった。ザルツブルグのデモンストレーションはカラヤンが企画し、マスコミを集めてくれた。

「アナログでは望み得なかった原音に忠実な音が、デジタルは再現できる。これこそが私の長年の夢をかなえてくれるメディアだ」

銀色に輝く円盤を片手にかざしながら、カラヤンは世界中から集ったカメラに向かって語った。ハイ・フィデルティ。『原音に忠実』を指す言葉だ。特にオーケストラでは、複雑な音響の再現において、デジタルとアナログの差は歴然としていた。

レコードの発明以来、Hi-Fiの追求が音楽産業の進歩を影で支えてきた。今では当たり前となったHi-Fiだが、音質がレコード産業の壊滅と復活を決めた事態すらあった(連載第36回)。

「私は今、至福に満ちている。音楽家の仕事が忠実に、永遠に受け継がれ、人類の遺産となる事が可能になったからです」

無劣化コピー。録音芸術の追い求めてきた理想を、デジタル・コンテンツは史上初めて実現した。その誕生を、カラヤンは音楽の都から祝福した。

(※1 『終りなき伝説ーソニー大賀典雄の世界』p.277)
(※2 『SONYの旋律 私の履歴書』p.231)
(※3 http://www.musicman-net.com/relay/48.html )
(※4 http://www.nintendo.co.jp/ir/library/historical_data/pdf/consolidated_sales1303.pdf )

 

 

オペラ歌手から企業家に

 

実は、大賀典雄が初めてカラヤンに会ったのは盛田邸ではない。1956年、ミュンヘンに留学していたときだった。

フルトヴェングラーの後任に収まった若き帝王の前で、日本人離れした威風を纏う大賀も当時、緊張するばかりだった。四半世紀後、自分がカラヤンの友人になるとは想像もつかなかったろう。カラヤンも、この駆け出しのオペラ歌手が国際企業の経営者となって、ともに世界のレコード産業にCD革命をもたらすことになるとは、露ほどに予感していなかった。

「自分の運命は、井深さんと盛田さんに出会って変わってしまった」

と大賀は度々語っている。F=ディースカウに似た声質を持つ大賀は、芸大を主席で卒業。NHK交響楽団のソリストとなり、リサイタルもひらいていた。ドイツの名バリトン、ヒュッシュに才能を認められ、ドイツ留学を射止めた。ベルリン国立芸術大学を主席で卒業後、ピアニストの松原緑と結婚した。音楽家として順風満帆であり、それ以外の生き方は考えていなかった。

しかし井深と盛田の方は、初めて会った日からずっと大賀を追っていた。

創業したばかりの東通工(Sony)は初の国産テープレコーダーを自力で開発(連載第38回)。だが値段が公務員の初任給で32ヶ月分もしたため、売り込みに苦戦していた。そんな折、芸大の教授会へ乗り込んで、国家予算でSonyの機材を購入するよう説得した学生がいるという。喜んで機材を芸大に貸し出したところ、その音大生が御殿山へ怒鳴り込んできた。

「問題が一〇項目あります。解決して貰わなければ買うことはできません」

そして大賀は、井深を圧倒するほどの技術的知識を駆使して課題をまくしたてた。次に来たときには自分で書いた配線図や、精緻な設計デザインまで携えていた。聴けばオーディオ趣味が高じて、学生の身でスタジオの設計までやっているという。

学生はそのうち「大変優秀な技術者がいらっしゃいます」と言って、他社から人材まで引き抜いて来た。実際、大賀の目利きは当たっていた。この時入社した吉田進と森園正彦は、後にトリニトロンテレビとハンディカムの開発を主導することになった。

井深はこの偉そうで風変わりな音大生がすっかり気に入ってしまい、社用車で大賀の住まいへ乗り付け、たびたび夕食を誘うようになった。大賀の音楽への意志は固く、ドイツへ留学したが、盛田は大賀に毎週手紙を書いてきた。

カラヤンと会った2年後。「二足のわらじでいいじゃないか。音楽のことはわからんが、君に経営の才能があることは僕が保証する。29歳の今から経営を学べば、40前に経営のことが分かってくる」という盛田の言葉に、遂に折れた。プロの歌手を続けながら、テープレコーダー部門の部長を勤めることになった(※)。

Sonyで働き出すと芸術家の大賀には、どうにも気に入らない点が出てきた。1960年当時、日本製品のデザインとブランド・イメージはお世辞にも美的感覚に優れているとは言えず、当時のSony製品も例に漏れなかった。

「ソニーは欧米の企業に比べ、デザインが未熟だと思いますよ」

これからは日本製品も、デザインと広告でしっかりブランディングしていかなければ、欧米の一流企業と互して戦えない。そう盛田に進言すると「それは気がついた人がやらなきゃ」と返された。デザイン室と広報室が新設され、3つの部長を兼任するはめになった。

ブラックと削り出しシルバーの組み合わせ。シンプルに洗練された形状。最も目立つ箇所に輝く銀色のロゴ。後にスティーヴ・ジョブズも、iPhoneやiPadで踏襲するこのソニー・デザインは、当時31歳だった大賀の仕事だ。

「クールなSony」のイメージはこの時、誕生した。Sonyにインダストリアル・デザイン、ブランド戦略、プロダクト・プランニングを導入したのは若き大賀であり、ジョブズが影響を受けたのは実際には盛田よりも大賀だったかも知れない。

井深の言う『バリトン技師』は、このときすでに盛田の手中に落ちつつあったのかもしれない。三つの部を監督する激務で疲れていた大賀は、東京フィルでの公演時、本番中に居眠りしてしまう。大賀扮するアルマヴィーヴァ伯爵は、何事も無かったように舞台に出てきて途中から歌った。観衆に気づかれることは無かったし、共演者も裏でクスクス笑う程度だった。

だが大賀はこれで、ミュージシャン人生の継続を断念した。

(※ 大賀典雄『SONYの旋律 私の履歴書』朝日文庫 2003年 p.66)

 

 

コンパクト・カセット。フィリップスとの出会い

 

市場の未来をデザインする企画のセンス。新たなパラダイムを組み上げる交渉のアート。盛田が音大生の大賀に見出したのは、自分と同じイノヴェーターの才能だったのだろう。歌手を止めた大賀は、まず、盛田の向こうを張る交渉力を見せ始めた。

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【本章の続き】
■コンパクト・カセット。フィリップスとの出会い
■CBSソニー、ソフトとハードの両輪
■日本のアイドル・ブームがCDの誕生に繋がった
■CDプレイヤーの開発。アインシュタインの光は音楽へ
■CD Walkmanが革命の勝利を導いた
■三者三様のイノヴェーション
■カラヤンを失う
■音楽が連れてきたデジタル・コンテンツの黄金時代
■コーダ。パッケージ・メディアの終わりの始まり

「未来は音楽が連れてくる」電子書籍 第1巻

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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)

 榎本幹朗

1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。

2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。

寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。

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